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2011年1月23日
2011年1月30日


2011.1.2
「神に向かって目を上げる」


詩編121編1b-8節


「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから」(1-2節)


 “真の助けは(当時の世界において決して動かないと信じられていた)「山」から来るのではなく、この「山」さえも、いや世界のすべてを創造された「主」から来るのだ”と詩人は宣言しています。

 ひるがえって私たちの生活を顧みてみますと、21世紀に入り私たちの周りの環境は、ますます大変な勢いで変化を続けています。変わり続けていくこの世界の中で、私たちは自分の人生の確かさを外に求めることもできず、かといって、ではこの自分も確かな存在かというと、この私たち自身もまたこの世と共に、昨日から今日、今日から明日へと常に移ろい、変わっていく、そのような存在です。確かさは、自らの外にもなく、また内にもない。私たちは、いったいどこに人生の確かさを・真の助けを求めたら良いのでしょうか。

 詩人が拠り所としたのは、過ぎ行くこの世のものではありませんでした。財産、地位、名誉、いや自分自身ですら、彼にとっては決して信頼に値するものではなかった。詩人の時代のイスラエルは、実に悲惨な状況に置かれていました。国は滅ぼされ、国民は異邦の地へと連れて行かれ、祖国は悲しみのどん底にありました。けれども彼らは、不安と混乱と悩みの中にありつつも、なおこの「主」に信頼を置くことを忘れなかったのです。この天地宇宙を創造された神様に信頼すればこそ、混乱と矛盾に満ちた世界を生き抜くことができた。

 彼らはただ「主」の内にのみ、新しく生きるための望みを見出すことができたのです。何者も、詩人の心をこの「主」から遠ざけることはできませんでした。この世のあらゆる権威も、迫害も、罪そして死でさえも、彼のこの確信を揺るがすことはできなかったのです。

 そして実にこれこそが、私たちにとってもまた、ただ一つの救い・希望なのです。救いは、他人から来るのでもなければ、自分自身から来るのでもありません。ただ、この「主」なる神様から来るのです。




2011.1.9
「神の姿がはっきりと」


マルコによる福音書8章22-30節


「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」(25節)


 ベトサイダの盲人は、主イエスの最初の手当てでぼんやりと見えるようになり、2度目の手当てによってはっきりと見えるようになりました。この盲人と、弟子たちの姿が重なってきます。

 主イエスは病人を癒す愛の業や4000人の者たちを7つのパンで養う奇跡をなして、その人気はいやが上にも高まったことでしょう。弟子たちは超人的な力を振るう主イエスに従うことを喜び、興奮し、素晴らしい奇跡を行う主の力を誇りに思ったに違いありません。でも、主イエス御自身はむしろ、そのような弟子たちの姿を悲しく思っておられたことでしょう。“私は、様々な権威や力を振るって人々を上から押さえつけるような王ではなくて、むしろどこまでも低くなって人に仕えるために、この世に来たのだ。人を愛によって支え、愛によって支配する真の王として来たのだ。どうか、そのことを悟ってほしい”。

 しかし弟子たちは皆、そのことが分かりません。ペトロは、主イエスがやがて起こる御自分の十字架の死と復活について話し始められた時、黙ってはいられずにいさめました。ペトロだけではありません。主イエスが2度目に“私は人々の手に引き渡されて殺され、3日の後に復活する”と話された時には、12人の弟子たち皆が“いったい、だれがいちばん偉いと思うか”と議論し合っていました。主が3度目に受難の予告をなさった時には、ヤコブとヨハネの2人の弟子が“神の国においてあなたが栄光の座に着く時には、どうか私たちをあなたの両側に座らせてください”と願い出ます。

 弟子たちはこれほどまでに驕り高ぶって、主イエスの本当の姿も、低さの中に隠されている救いも見えずにいます。しかし実はこの弟子たちこそ、主によって再び手を当てていただかねばならない者たちであったのです。そして、この私たちもまた、主に繰り返し手を当てていただいて、信仰の目を開かれなければならない者たちなのです。




2011.1.16
「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」


マルコによる福音書8章31節-9章1節


「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)


 ここで主イエスが言われた〈自分を捨てる〉というのは、どういうことでしょうか。“もう、どんなふうにでも生きてやれ”と、やけっぱち・自暴自棄になって生きることでしょうか。そうではありません。自分中心の生き方をやめて、神様を中心に生き始めることです。

 主イエスが言われる〈自分を捨てる〉というのは、やけになって生きることでもなく、難行・苦行をして自我・エゴを捨てるというようなことでもありません。自分の中には本当の愛も命もないことを知ることです。自分に徹底的に絶望すること、望みを置かないことです。私たちは“自分は弱くて、愚かで、ダメな人間です”と言いながらも、まだこんな自分のどこかに望みを置いているのです。己に完全に絶望してはいないのです。だから、神様に本当に依り頼むことができない。

 私たち人間の中には、誰一人として、神様に従い通すことのできる人、神を愛し隣人を愛し抜くことのできる人はいません。だからこそ、主イエスは真の神の子でありながら、真の人間となってくださり、自分を捨て、十字架を背負って、死に至るまで父なる神様に従い通されたのです。そうやって“人間とはこのように神を愛し、お互いに愛し合って、愛の中を生きるべきものなのだ”と、私たちに本当の生き方を教えてくださいました。だから、私たちは自分に絶望して主イエスの所へ行けばよいのです。主イエスをどこまでも信じて従い、主に倣って生きる時、そこに主と共にある新しい愛の生き方が・命が生まれます。それは、死さえも取り去ることのできない〈永遠の命〉です。

 すべての人がこの〈永遠の命〉に招かれています。十字架において顕された主イエスの限りない愛に出会う時、強制されてしぶしぶ従うのではなく、自由の中から、“このお方に少しでも似た者とされたい。私も、このような愛の人になりたい”という憧れと願いを抱く者へと変えられていくのです。これこそ、奇跡と言うほかない出来事です。




2011.1.23
「真の神であり真の人」


マルコによる福音書9章2-13節


1、「これはわたしの愛する子。これに聞け」(7節)


 私たちは、いつも上へ上へと登っていくことばかり願う者たちです。栄光の中に留まり続けることを願って小屋を建てようとしたペトロのように、上昇志向の中から抜け出せないでいます。そのようにして、本当に大切な、仕えること、低くなって生きることを見失ってしまうのです。しかし、キリストは山から下りてゆかれ、私たちにもそれに従うことをお命じになるのです。私たちも、ペトロが願ったのと同じように山の上に留まっていたいのです。主の栄光を見つめ、〈神の国〉のことだけを考えていたい。しかし私たちも主イエスと共に山を下りていかなければなりません。礼拝から出発して、救いの御業のために神に仕え、隣人に仕えるのです。そこには苦しみがあります。でも、この道を、私たちはただ一人で歩まなければならないというのではありません。そこに、主が一緒にいてくださるのです。


2、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(8節)

 この主イエスと共に歩む道こそ、命に至る道なのです。私たちがどこまでも低くなって主と共に歩む時、主の栄光が、その命の輝きが、やがて私たちを照らすのです。私たちもまた主と同じように復活させていただくのです。本当に主と共に低く貧しくなって仕えて生きる時にはじめて、私たちは主の栄光のお姿を本当に理解することができ、またそれにあずかる者とされていくのです。栄光に満ちた〈神の国〉の完成が、私たちを待っています。この恵みにあずかるのは、それにふさわしい者たちではありません。罪と汚れに満ち、神に逆らう本性を持つ私たちなのです。

 変貌を遂げるのは、主イエスだけではありません。私たちもまた、変えられるのです。変えていただけるのです。私たちが聞き従うべきただ一人のお方、主イエス・キリストが共にいてくださって、弱くて小さな私たち一人一人をも〈神の子〉へと創り変えてくださるのです。




2011.1.30
「共に苦しみ、共に喜ぶ」


コリントの信徒への手紙一 12章12-31節a


1、「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(21節)


 体にとって必要でない部分など何一つありません。そして体のそれぞれの部分がお互いに助け合い、支え合ってはじめて一つの体として調和を保つことができるように、教会の一つの肢(えだ)・「部分」とされた私たちは、皆がかけがえのない存在として教会に置かれているのです。


2、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(24-25節)

 自分の体でも、怪我をしたり病気になったりした時は、他の部分がそこをかばい、それによって全体が調和を保っています。教会も同じです。ですから、自分で〈強い〉と思う人は、むしろ〈弱い〉と思われる人を支え、助けていく必要があります。そうやってお互いに足りないところを補い合い、支え合って、私たちは〈一つの体〉〈生けるキリストの体〉とされていく。これこそが、真の教会なのです。


3、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(26節)

 一人の兄弟姉妹が苦しむ時には皆で共に苦しみ、一人が祝福を受ける時には皆で共に喜び合う。教会の本質とはこの「共に」ということではないかと思うのです。たとえどんなに優れた人、素晴らしい賜物を持つ人がいても、一人では教会になりません。逆に、私たちがどんなに弱く小さな者たちであるとしても、本当に主に在って心を一つにして歩むならば、かつて主イエス御自身が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)と約束してくださったように、主が私たちの只中にいてくださり、私たちを一つの体としてくださるでしょう。




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