- INDEX -
2011年2月6日
2011年2月13日
2011年2月20日
2011年2月27日


2011.2.6
「信仰のない私をお助けください」


マルコによる福音書9章14-29節


「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)


 この父親は主イエスを心から信じてはいませんでした。なぜなら、本気で信頼して身を任せたら、その信頼が裏切られた時の絶望に耐えられないからです。だから“できることなら、息子を助けてください”と主イエスに頼みます。でも、言うまでもなく、このような在り方は信仰と呼べるものではありません。全能なる神様に対して“もしできるなら”と言うのは、神に対する絶対的な信頼を放棄したということであり、それはすなわち不信仰です。主イエスはそれをただちに見抜かれて、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(23節)と、彼の不信仰をえぐり出されたのです。

 この鋭い指摘に対して父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びました。これは、矛盾した言葉です。一方では「信じます」と言いつつ、他方で「信仰のないわたし」と言っている。でも、これこそが信仰者の姿なのではないでしょうか。「信じます」という信仰に賭けた自分と、「信仰のないわたし」という信じ切れない自分とのせめぎ合いが、ここに表れているのです。

 私たちは皆、誰しも、神様に対して自分を委ね切ることができない「信仰のないわたし」を抱えています。しかし、その「信仰のないわたし」に固執して〈自分〉の中に閉じこもり続けるのか、逆に、その「信仰のないわたし」を丸ごと神様のほうに、神の愛の力の中に投げ込んでいくのか。そこから分水嶺のように人生が分かれていきます。

この父親が「信じます」と告白した時に、彼はもはや、自分の周りに安全圈を作っておいて、その中に神の力を呼び込もうとするような在り方を断ち切ったのです。そして信じることのできない〈自分〉をそのまま、神の力の中に投げ込んだのです。神様に全身全霊をもって望みを置き、依り頼んだ彼の生き方。新しい世界への飛躍。これこそが信仰なのです。そこから、神様と共にある全く新しい命が始まっていきます。






2011.2.13
「だれがいちばん偉いか」


マルコによる福音書9章30-37節


「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)


 主イエスはここで“慎み深くありなさい”というような一般の道徳的なことを言われたのではありません。また主は“一番になることを望んではならない”とも言われませんでした。つまり、一番になろうとすることがいけないのではなくて、神様が求めておられる一番とは何か、その内容を理解していないことが問題なのだというのです。

 神様の眼に映る価値基準は、この世の基準とはまったく違います。人の上に立って、力ずくで他者を支配すること、人を押しのけてでも自分の目的を貫き通し、自己実現を図るというあり方は退けられるのです。一番先を、振り返りもせずに進む人には、他の人の姿は見えません。でも、一番後から行く人は、前を行く多くの人々が視野に入ります。その一番最後の人に、「すべての人に仕える者」になることが勧められるのです。どこまでも自分を捨てて、他者に関わり、他者を生かす者として生きることが求められているのです。

 一番後になる人は、先を行くすべての人が視野に入ります。先を行く人たちが自分でも気がつかずにいる様々な病や囚われも、分かるでしょう。それらの「すべての人に仕える者になりなさい」と主は言われるのです。

 この「仕える者になりなさい」ということを、ただ奉仕を強制する言葉として律法主義的に受け取ってはいけません。他者に仕え・他者を生かす存在となることは、実は、そのようにして仕える自分自身もまた、なくてはならない存在として生かされるということなのです。仕えることこそが、自らも生かされる道なのです。ここにこそ、人が人として本当に生かされる〈命の道〉があるのではないでしょうか。私たちは、お互いに仕え合い、生かされ合うのです。そこに交わりが生まれ、人間としての〈真の命〉を生きるのです。






2011.2.20
「小さい者をつまずかせる人」


マルコによる福音書9章38-50節


「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(39-40節)


 なぜ主イエスは、ご自分の名が断りもなく使われることをこれほど快くお許しになったのでしょうか。悪霊が追放される出来事は、ただその病人の癒しと回復について語るだけでなく、神の子としての主イエスの偉大さを示し、またそこに神様の支配が及んでいる、すなわち〈神の国〉が来ているという、そのしるしとなっています。

 今日の御言においても、その〈主イエスの名〉による悪霊追放の出来事が報告されているのです。悪霊に取り憑かれ苦しめられていた人、〈主の名〉によって悪霊を追い出した人、それを取り巻いて見ていた人々。その場に居合わせたすべての人が、〈主イエスの名〉による神の偉大な働きを見たのです。その場にいた人々は驚き、畏れ、特別な思いをもって〈主イエスの名〉を受け止めたことでしょう。〈主の名〉を通して神様がお働きになり、人々がその名を受け入れていくという出来事がそこに起こったのです。その〈主の名〉が引き起こしていく神の出来事を「やめさせてはならない」と主は言われるのです。

 だいたい、主の名前を使っていいとか悪いとか、いったい誰にその資格を決める権利があるのでしょうか。自分たちこそ〈主イエスの名〉を使う資格が誰よりもあると信じていた弟子たちが、わずかのちに、主ヘの呪いの言葉さえ口にするのです(マルコ14・71)。彼らは「味方」にさえ、なれなかったのです。しかし、主イエスは、無断でご自分の名前を使い悪霊追放をする人をお許しになりました。そして同時に、ヨハネのことをもお赦しくださっているのです。〈主に逆らわない者〉であるどころか、やがて〈主に逆らう〉ヨハネでさえも、主の愛と赦しに包まれています。むしろ、このような弟子たちのために、他者を愛し、受け入れることのできない私たち一人一人のために、主イエスは十字架へと向かって行かれるのです。






2011.2.27
「神が結び合わせてくださったもの」


マルコによる福音書10章1-12節


「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(9節)


 私たちは、天地を創造され、人を男と女としてお造りになり、二人を「一体」となさった神様の、揺らぐことのないこの定めの厳粛さを覚え、同時に、神の器モーセを通して示された〈許しの掟〉(申命記24・1)の意味をしっかりと知りたいと思います。

 神様はよきものとして男と女を創造し、祝福を与え、「一体」となって共に生きるようにお定めになりました。けれども私たちの内にある罪が・弱さが・頑なさが、それを妨げます。私たちは、愛し合って共に「一体」となって生きたいと願いつつ、いつしか自分中心になり、アダムとエバのように自己中心的に、自分勝手に生きてしまう者たちです。しかし神様は、その私たちの現実もちゃんと知ってくださり、モーセを通して〈許しの掟〉を与えてくださいました。本来の、あるべき姿になり得ない私たち人間の弱さを認めて、赦してくださったのです。ここに、神の愛があります。詩編130編において詩人が歌っているとおりです。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです」(3‾4節)。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる」(7‾8節)。

 この神の愛は、やがて御子イエス・キリストを通して完全に顕れました。それが十字架の出来事です。神様は、“神を愛し、お互いに愛し合って、命の道を生きる”という本来のあるべき姿になり得ない私たちすべての人間の弱さを認めて、私たちの罪を赦してくださったのです。それが、これから主イエスが向かって行かれる十字架です。今や、この主イエス・キリストが私たちすべての人間の間に立っていてくださり、すべての人を御自分の限りない愛と赦しによって結び合わせてくださるのです。





前の月へ

次の月へ

トップページへ