- INDEX -
2011年3月6日
(2011年3月13日)
2011年3月20日
2011年3月27日


2011.3.6
「目を覚まして祈っていなさい」


マルコによる福音書14章32-42節


1) 「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)


 眠りこけている弟子たちの傍で、血のしたたるような苦しみと闘いつつ3度も祈られた主イエスは、上記の祈りにまで到達されました。主は、十字架というこの苦しみの「杯」が、「アッバ、父よ」と呼ぶことのできる父なる神様の御心によることであると確信します。そしてこの時すでに主は、十字架におつきになる覚悟を決められたのだと思うのです。何一つ罪のない自分が本当は受ける必要のない、十字架という苦い「杯」を、ただひたすらに父なる神の御心に従って受ける決心をなさったのです。現実に、目に見える仕方で十字架の出来事が起こるのは、時間的にはもう少し後です。しかし、今すでにもう主イエスは試練に打ち勝って十字架にかかり、罪と死に勝利しておられるのです。


2) 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)


 これは“気合いを入れて眠気に勝ちなさい”というようなことではなくて、“私たち人間は皆、誰の内にも〈〉と〈〉との闘いを抱えている、そのような存在なのだ。たとえ〈〉が眠っておらず、燃えていてすら、〈〉は弱さを負っている”という、そういう意味の言葉です。常に〈〉と〈〉との間に闘いがあり、たとえ〈〉が燃えていても、〈〉の弱さが勝利を収めるという、私たちのどうしようもない弱さと破れがここに指摘されているのです。だからこそ、この「ゲツセマネ」の園における誘惑と試練に対して主イエスが既に勝利を収めてくださった、という究極の事実が力を持ってくるのです。私たちの弱さと苦しみをとことんまで知ってくださり、罪と死に打ち勝ってくださったこのお方につながって共に歩むならば、私たちには何一つ恐れるものはないのです。






2011.3.20
「神の子に対する死刑宣告」


マルコによる福音書14章53-65節


「一同は、死刑にすべきだと決議した」(64節)


 裁きというのは、人間の最も高度な知識と判断力を必要とします。人は被造物の中で唯一裁きを行う存在であり、その意味で、最も人間らしいのは裁きを行うことであると言えるでしょう。しかし、ここに登場する人々はその裁きの業を悪の道具として用いてしまうのです。最高法院は一致して主イエスに死刑を宣告します。彼らはこの裁判に勝利し、自分たちの権威を脅かす者を排除することに成功しました。それはすなわち、人が神を裁き、神に勝利したということです。人間は、自らの知恵によって主イエスを神の子メシアと認めることができないばかりか、むしろ裁いて死刑に定めてしまったのです。

 しかし、不思議なことに裁きの場に立たせられたその主イエスの姿は、苦難の中にある人に慰めと励ましを与え続けています。キリスト者にとっての試練の場は、そこにキリストが共に立ってくださる場とされるのです(イザヤ書53・4‾5)。“神などいるものか”と叫ぶ人に“それでも神はおられる”と伝えるには、その人の傍らに立ち、その人の痛みを〈共に〉背負う以外に道はありません。神の独り子は人となられ、不当な裁きを受けて徹底的に苦しむ者の姿を取ってくださいました。それ以外に、苦しむ人に神の存在を示す道はなかったのです。ここに、どのような苦しみや悲しみにも寄り添ってくださる「インマヌエル」「神は我らと共におられる」(マタイ1・23)の神髄が表れ出ています。

 しかし私たちは、その〈共に〉生きてくださる、人となられた神を、自分たちに都合が悪い存在だからといって、最も厳正で中立であらねばならない裁判をもって死刑に定めてしまうのです。ここに自己中心の罪があります。けれども主イエスは、そのような私たちの罪をすべてその身に負って、十字架にかかって死んでくださいました。そしてそれこそが、私たちを罪から救う神様のご計画であったのです!







2011.3.27
「三度も裏切ったペトロ」


マルコによる福音書14章66-72節


「ペトロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした」(72節)


 主イエスがペトロに対してこのように予告なさったのは、最後の晩餐が終わった後、「あなたがたは皆わたしにつまずく」(14・27)とすべての弟子に告げられた時でした。それを聞いたペトロは、力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14・31)。ペトロだけではありません。他の弟子たちも皆、口々に誓ったのです。しかしまさにその同じ夜、主の予告した言葉は現実となり、弟子たちの決意は粉々に打ち砕かれてしまったのでした。

 信仰とは、自分の決意や熱心さのことではありません。もしそうであるならば、私たちの信仰もまた、この時のペトロや弟子たちと同じように粉々に砕かれ、絶望に終わるほかありません。私たちは、自らの力によっては、主に従い切れない者たちなのです。しかし主イエスは、そのような罪深さも弱さも徹底的に知った上で、一人一人を招いてくださいます。私たちの罪も弱さも、すべて主に知られています。でも、その上で、主の大きな愛と赦しに包まれているのです。

 だから大事なことは罪の痛みと悲しみの涙の中で、この主イエスの許に立ち帰ることです。パウロもIIコリント7章で語っています。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(10節)。やがて復活なさった主イエスに出会う時に、ペトロは本当に命を捨てて主に従う者へと創り変えられますが、その真の信仰の歩みはここにすでに始まっているのです。ペトロの涙はただ悲しみに終わるものではなく、主の愛に出会った悔い改めの涙でもありました。私たちも、繰り返しこの主の許に立ち帰り、主に結ばれて歩みましょう!






前の月へ

次の月へ

トップページへ