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2011年4月3日
2011年4月10日
2011年4月17日
2011年4月24日


2011.4.3
「真の王がここに」


マルコによる福音書15章1-15節


1) 「お前がユダヤ人の王なのか」(2節)


 この「ユダヤ人の王」という称号・呼び名を聞く時、想い起こされるのは、マタイ福音書の始めに登場する、東の国の博士たちの言葉です(マタイ2・1‾2)。そしてこの「ユダヤ人の王」は、ユダヤのベツレヘムという小さな町の馬小屋でお生まれになりました。

 主イエスの生涯を通して、この世の常識をはるかに超える事柄が起こっています。私たちにとって「王」とは、権力や武力といった世の力によって民を治め、支配し、敵国から守ってくれる存在です。しかし聖書が告げる〈真の王〉とは、力によってではなく、反対に愛によって私たちを支配なさるお方なのです。愛と支配ということは結び付きにくいと思いますが、主はその限りない愛によって、一人一人の魂を捕らえ、“ああ、私も主に倣った愛の生き方がしたい”という思いを私たちの中に創り出してくださるのです。それは、まさに奇跡です。自分中心の生き方しかできないエゴの塊である私たちが、主イエスとの出会いによって、創り変えられていくのです。


2) 「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを……十字架につけるために引き渡した」(15節)


 殺人の罪を犯した囚人バラバが釈放され、主イエスは十字架につけられるために引き渡されました。まさにここで、〈真のメシア・救い主〉である主イエスの救いの御業が、歴史的な出来事・目に見える出来事として起こったのでした。主イエスとバラバの道は入れ替わり、バラバは命の道へ、主は十字架の死の道へと向かっていくのです。ここに主イエス・キリストの十字架の救いが顕れています。パウロが語っているとおりです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(IIコリント5・21)。






2011.4.10
「十字架から降りない救い主」


マルコによる福音書15章16-32節


「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(32節)


 主イエスは、ついに十字架から降りることなく、御自分を十字架に引き渡して殺した者の罪を赦し、さらにその十字架の死を通して、私たちすべての人間の罪を赦してくださったのでした。福音書には、様々な奇跡が出て来ます。病人が癒される奇跡、主がガリラヤ湖の水の上を歩かれた奇跡、5つのパンと2匹の魚が限りなく溢れ出た奇跡……。でも、私は、主イエスがついに十字架から降りなかったという今日のこの出来事こそが、実は最大の奇跡だと思うのです。それは、〈赦し〉という名の奇跡です。

 人を赦し、お互いに愛し合って生きたいと心から願いつつも、それをなし得ない罪深い私たちです。口では“赦す”と言いながら、どんなに時が経っても、本当には赦すことができず、むしろ他人に対する貸しが浮かび上がって来て、それを勘定している私たちです。そして、そのことによって自分自身が縛られ、憎しみや恨みや妬みといった〈〉の思いに苦しめられている。私たちは〈赦し〉という出来事を、自分の感情の問題、感情をどうコントロールするかといったレベルで処理できる簡単な問題だと錯覚しているということはないでしょうか。しかし、〈赦し〉というのは、私たち自身の中にある〈〉の問題であり、私たちが主イエスの〈赦し〉をどれだけ本当に受け取っているかという〈救い〉の問題なのです。そのことを、本当に知らなければなりません。

 赦せないのは、私たち自身の中に、主イエスのような、敵をも愛するほどの真実の愛がないからです。自分がどれだけのものを赦されて生かされているかを本当には知らないからです(マタイ福音書18章の〈仲間を赦さない家来〉の譬え話)。今、十字架にかけられたままの主イエス・キリストを通して、このはかりしれない恵みの出来事が起こっているのです。






2011.4.17
「本当に、この人は神の子だった」


マルコによる福音書15章33-47節


1)「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)


 この不思議な出来事には、深い意味があります。この「神殿の垂れ幕」というのは、〈至聖所〉の前の幕のことだと思われます。〈至聖所〉というのは神殿の奥にあって、そこで神様とお会いする場所とされていて、聖職者である大祭司しかそこに入ることができませんでした。しかし、その〈至聖所〉の前の幕が裂けたということは、神様のおられる場所から祭司以外の人を締め出す掟、中でもユダヤ人以外の異邦人を締め出す掟が廃棄された、ということを表しています。実に今や、世界中のすべての人が、何の条件もなしに神様に近づく道が開かれたのです。


2)「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(39節)


 上記のことを証しするかのように、続く39節にはローマ軍の百人隊長の告白が記されています。異邦人である百人隊長のこの告白は、先週の御言において十字架の上の主イエスを嘲ったユダヤ人の指導者たちの嘲りの言葉とは対照的に響きわたっています。やがて主イエスの死の後に100年を経ないでローマ全土に教会の基礎ができていくわけですが、この異邦人である百人隊長の告白は、自分自身でも思ってもみなかった真実の信仰告白であったのです

  このようにして、神様のご計画は人知を超えた仕方で進められていきます。主イエスは私たち人間の手によって十字架につけられ殺されました。罪がこの世を覆い尽くし、人間の欲望と力が世を支配しているかに思われた十字架の出来事。しかしそれらはすべて神の御手の内にあり、これらのことをすべて用いて神様のご計画は実現していくのです。何と不思議なことでしょうか。






2011.4.24
「あの方は復活なさって、ここにはおられない」


マルコによる福音書16章1ー8節


「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(6ー7節)


 マルコ福音書は全体を通して何を語っているのでしょうか。それはひと言で言えば、主イエスに従って行くはずの弟子たちがことごとく失敗した物語です。弟子と呼ばれる人々は、男性も女性もすべて主イエスに従うことに失敗しました。

 しかし、それで終わりではありません。実はまだ2つの事柄が残っているのです。1)「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という主イエスの復活の知らせと、2)「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」というガリラヤでの再会の約束です。ガリラヤというのは、主イエスがその活動を開始し、弟子たちをお召しになった場所です。弟子たちはかつての出会いの場所で復活の主イエスに会うのです。復活なさった主イエスはかつてのようにガリラヤで弟子に会い、「わたしについて来なさい」(1・17)と呼びかけ、再び彼らを通して、〈神の国〉の到来を告げる宣教の業をお始めになるでしょう。

  1)主の復活の知らせと、2)ガリラヤでの再会の約束、この2つの事は“このマルコ福音書を、始めに戻ってもう一度読み直すように”と読者を促します。マルコ福音書をもう一度読み返す時、そこには働いておられる主イエスがおられます。それは、すでに見てきた十字架にかかる前の主イエスであると同時に、復活なさった主イエスでもあります。福音書全体が、今や復活の光に照らされているのです。すべての弟子たちの弱さも罪深さも失敗もご存じの上で、一人一人を召してくださった主の愛、御自分を見捨てた弟子をも見捨てず彼らに復活を告げる主の愛に満ちているのです。



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