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2011年5月1日
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2011年5月22日
2011年5月29日


2011.5.1
「子どもたちを来させなさい」


マルコによる福音書10章13-16節



子どもと大人の合同礼拝


「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(15節)



 イエスさまは、ご自分の手の中ですっかり安心し、委ね切っている子どもや赤ちゃんの姿を見て、“ほら、大人の人たちも、こんなにふうに素直に神様に自分をお任せしないと、〈神の国〉に入ることはできないよ”と言われたのです。〈神の国〉〈永遠の命〉というのは、人間がどんなに頑張っても、自分たちの手で創り出したり、そこに入ったりすることができるものではありません。神様から感謝して受け取ることしかできないものなのです。〈神の国〉を前にした私たち人間は、まるで、大人にお世話をしてもらわなければ何もできず、生きていくことができない子どもと全く同じなのです――大人も子どももみんなそうです。だから、私たちは大人も子どももみんな、威張ったり、自分の力を信じたりすることはできません。

 今の時代の人間は、文明や文化が発展していく中でだんだん“自分は偉い”と思い違いをするようになり、私たちの命の造り主であり、世界のすべてを支配しておられる生ける神様を忘れてしまっています。知らないでいます。せっかくイエスさまがこの世においでくださったことによって〈神の国〉がもう既に来ているのに、そこに入れないのは、そのためです。そうやって神様から離れてしまっているために、自分の知恵や力で、なんとかこの競争社会を生き抜こうと努力しているのが、今の私たちの姿です。そうやって努力をすれば、〈神の国〉にも入れると思っているのです。

 でも私たちは、幼子のように小さく、低くなって、心から父なる神様を信頼するのでなければ、決して〈神の国〉に入ることはできないのです。





2011.5.8
「神による再建」


エゼキエル書36章33-38節



芳賀繁浩牧師(豊島北教会、中会議長)による応援説教


「そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」 (38節)



 神様は「建て直す」と語られます。荒れ果てた地、すべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになり、破壊されて廃虚となった町々が大勢の人々の住む町になると言われるのです。

 それは、神様が私たちをすべての罪から清める日です。そのとき、私たちは神様が主であることを知ります。

 神様が主であるとは、私たちが主ではないということです。人間はこの世界の主人ではありません。人間の知恵と力とによって、神様が造られた世界を制御することはできません。そして私たちは私たちの人生の主人でもありません。私たちは、私たちの願い通り、計画通りに人生を送ることはできません。人の計画は水泡に帰し、私たちの願いもまた崩れ去るのです。

 けれども、神様が主であるとは、偶然や虚無が主でもないということです。私たちから喜びと希望を奪い、虚しさと絶望との中に引き込もうとする滅びの力もまた、この世界を支配してはいないのです。

 神様が主であるとは、この世界を無から創造し、時至ってこの世界を完成させてくださる神様が、今もこの世界を支配し私たちの生涯を導いていてくださっているということです。「私が生きるときも死ぬときも、身体も魂も、私のものではなく、真実なる私の救い主イエス・キリストのものである」(ハイデルベルク信仰問答)ということ、それが私たちのただ一つの確かさであり慰めであり希望なのです。

 私たちが感謝をもって神様が主であることを受け入れ、信じ、従うこと、その時にこそ廃墟となった私たちの心は建て直され、荒れ果てた私たちの魂が潤う園となるのです。





2011.5.15
「あなたに欠けているもの」


今日のポイント:マルコによる福音書10章17-31節



「あなたに欠けているものが一つある」(21節)



 ここで主イエスが言っておられるのは、この資産家の男性がこれまで一生懸命に守ってきた律法に、さらに一つ別の項目を付け加えよというようなことではありません。むしろ、この一つが欠けているために、すべてが無意味となってしまうような決定的な欠けです。それは何であったでしょうか。「わたしに従いなさい」と言って招いてくださる主イエスに、本当に従って行くことです。主に従うためには彼の資産は邪魔です。だから“それらを売り払って、貧しい人々に施しなさい”とお命じになるのです。でも、それは彼にはできませんでした。たくさんの資産を持っていたからです。少しであれば、処分するのは惜しくありません。なんと皮肉なことでしょうか。財産がたくさんあることが、彼にとってはかえって災いとなったのです。

 主イエスに従うとはどういうことでしょうか。今日の私たちは当時の弟子たちのような仕方で具体的に主に従うことはできません。そうであるならば、どのような生き方が主に従うことになるのでしょうか。それは主イエスだけを信じ、主だけを生きる拠り所とし、自分のすべてを委ねて生きることです。そして、主以外の何者にも頼らないことです。

 でも、私たちは決してこの人を笑うことはできません。確かに私たちには彼ほどの財産はないかもしれません。でも、その代わりに何か別の捨てなければならないものを持っているのではないでしょうか。主イエスが第一に求めておられるのは、主に従うことです。そのために妨げとなるものを捨てなければなりません。そうしなければ従っていくことができないからです。私たちも主イエス以外に“これだけは手放せない”というものを持っているのではないでしょうか。“主を信じている”と言いながらも、その他にも何か頼りにしているものがあって、それを捨て切れずにいるということはないでしょうか。





2011.5.22
「仕える者になりなさい」


マルコによる福音書10章32-45節


「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」(35節)


 主が「何をしてほしいのか」(36節)とお尋ねになると、2人は即座に答えます。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。このゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟は、ガリラヤ湖畔でシモン・ペトロとアンデレの兄弟に続いて主から召しを受けた者たちであり、ペトロと共に12弟子の中でも主イエスに特に近くあった弟子であったようです。例えば、5章では、主が会堂長ヤイロの娘を生き返らせた奇跡に、ペトロと3人だけで立ち会っていますし(5・37)、9章では、高い山の上で主イエスのお姿が変わったのをやはりこの3人だけで目撃しています(9・2)。その時、この3人は栄光に輝く主イエスの姿を目にしました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(9・2-3)。おそらくその時からずっと、ヤコブとヨハネの兄弟は、主イエスの左右の座に座って、その栄光にあずかる自分たちの姿を夢見てきたのでしょう。今、その溜まり溜まった思いを主イエスにぶつけたのです。

 しかし、主イエスは、弟子たちの思い違いを正そうとされます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)。“あなたがたは、自分が何を願っているのか、また何を願うべきかを、まったく分かっていない”と主は言われます。そうです。主イエスと共に栄光を受けるということは、主と共に低く貧しくなって他者に仕えることであり、主と共に十字架の苦しみを受けることなのです。主イエスがお受けになる栄光とは、十字架の苦難を身に受けることであったのです。だからこそ主は、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)と問われるのです。





2011.5.29
「あなたの信仰があなたを救った」


マルコによる福音書10章46-52節


「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47節)


 この癒しの出来事は、直前の45節と併せて読む時に、さらに深い意味を持って響いてきます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。主イエスは、すべての人の罪を贖うために、つまりすべての人を罪と死の奴隷状態から解放するために、自分の命を「身代金」として献げてくださいました。主は、エルサレムヘ向かう途上において盲人バルティマイを闇の世界から解放されただけではなく、やがてエルサレムにおいて十字架につけられ死ぬことによって、すべての人間を罪と死の奴隷という闇の中から解放してくださるのです。

 御自分の命を与えてまでも相手を救おうとする主イエス・キリストの深い憐れみは、すべての人に向けられています。盲人バルティマイの癒しも、その主の深い憐れみのあらわれの一つです。そして、その深い憐れみによる救いは、単に肉体にとどまらず、私たちの心も体も含めた全存在にまで及ぶのです。

 真のメシア・救い主である主イエス・キリストは、単なる肉体の癒しにとどまらない、まったく新しい命をこの世にもたらしてくださいました。すなわち、私たちは主イエスの十字架の出来事を通して、限りなく遠い存在であった神様に近づくことができるようになったのです。罪と死の奴隷となり、なすすべもなかった私たちは、主イエスが「身代金」として御自分の命を支払ってくださったことによって罪の支配から買い戻され、そのようにして神様にすべての罪を帳消しにしていただいたのです。この真の救い主である主イエスを信じる一人一人の内に、父なる神様との交わりすなわち〈新しい命〉〈永遠の命〉がもうすでに始まっている。肉体の癒しは、そのしるしなのです。主は、この私たちにも「何をしてほしいのか」と問いかけておられます。“主イエスよ、私を憐れんでください!”。




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