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2011年6月5日
2011年6月12日
2011年6月19日
2011年6月26日


2011.6.5
「子ろばに乗った王」


マルコによる福音書11章1-11節


「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」(7節)


 ゼカリヤ書9章には、次のような預言の言葉が記されています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ」(9‾10節)。まさにこの預言のとおりに主イエスは「高ぶることなく、ろばに乗って」、謙遜で柔和な真の王として私たちの所に来てくださいました。

 馬が富と権力の象徴であるとするならば、ろばは貧しさとへりくだりの象徴です。主イエスは、ろばに乗った真の王として私たちの所に来てくださったのです。エルサレムの都に入る前からすでに主イエスは、互いに権力の座を奪い合う弟子たちに向かって10章42節以下でこう語っておられました。「……あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。このように弟子たちに教えられた主イエスは、本当はご自分こそが最も高く尊い神の子であるにもかかわらず、むしろ最も低く貧しくなって、私たちすべての人間に仕える者となってくださいました。まさに、ろばに乗ってエルサレムに入って来られる主のお姿に、貧しく低くなられた真の王の姿があらわれています。しかもこの後すぐに、主イエスはご自分の命を十字架に献げることによって、最大・最高の奉仕をなしてくださるのです(マルコ10・45)。

 主イエス・キリストは、真の王として、また真の救い主として今、エルサレムの都に入って来られます。この王は、武力や権力によって私たちを外側から力ずくで押さえつけ支配する王ではなく、私たちをご自分の限りない愛によって捕らえ、その愛によって一人一人を内側から創り変えてくださる本当の王様なのです。





2011.6.12
「約束された聖霊」


使徒言行録2章14-36節



ペンテコステ礼拝


「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」(22節)



 主イエスが地上の生涯においてなさった数々の「奇跡」と「不思議な業」と「しるし」――病人を癒したり、死んだ人を生き返らせたり、湖の上を歩いたりといった業――は、まさに「神」の力によるものであり、神様が主イエスを通してなさった御業でした。ところが人々は、その力ある業を目の当たりにして驚きながらも、主イエスが神の御子であり、救い主であることを決して認めようとはせず、かえってこの「神から遣わされた方」を、「律法を知らない者たち」すなわちローマ人の手を借りて、「十字架につけて殺してしまった」というのです。なんと愚かで、取り返しのつかないことを、人間はするのでしょう。

 けれども“そのどうしようもない愚かな出来事さえも、実は神様の御手の内にあったのだ”とペトロは言うのです。神様は主イエスを「お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で」十字架の死に引き渡されたのです。しかも、それにとどまらず主イエスは、死さえも支配なさる神様によって、復活させられたのでした(24節)。神の愛は、またその救いのご計画は、なんと大きく、広く、深いことでしょうか!

 水曜日の朝晩の〈聖書の学びと祈りの会〉では創世記を読み終えたところですが、その創世記の終わりのほうには、少年の頃に兄たちによってエジプトに奴隷として売られ、やがてエジプトの大臣になって世界を飢饉から救ったヨセフの言葉が出てきます(45・4‾5、50・20)。かつてヨセフが神様の大きな救いに気づき、それに圧倒されていったように、ペトロも今、その神様の救いを証ししています。私たちも、この神様の救いの御手に包まれていることを知りたいと思うのです。本当に弱くて、愚かで、罪深い私たちです。しかし私たちもまた、悪をさえも善に変え、罪を打ち破ってくださる、神様の大きな救いに包まれているのです。





2011.6.19
「キリストのための苦しみ」


フィリピの信徒への手紙1章27-30節



岸川幸生さんによる説教


「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(29節)



 人生を歩むときに必ず苦しみがあります。私たちは苦しみや困難をできるだけ避けたい、避けられないのであれば自分に降りかかる部分を軽くしたいと願って生活しています。むしろその苦しみを避け、困難から脱出するために「神からの救い」を願い求めているのではないでしょうか。ところが、ここには「キリストのための苦しみを賜った」とあります。「苦しみ」は神から賜っているというのです。この「苦しみ」というものを私たちはどのように捉えればよいのでしょうか。

 今日焦点を当てる「苦しみ」は「キリストのための苦しみ」です。遭遇する苦しさや困難に主イエスが関係している、そういう類の苦しみです。キリスト教の信仰を持ってこの社会において他者と共に生きようとするときの様々な不都合からくる苦しみ、困難さです。

 ここで「苦しみが恵みとして与えられている」ということに注目しなければなりません。苦しみが神から与えられているとすれば、当然ながら神御自身は、私たちがどのように苦しむかということを知っておられ、この苦しみに耐えられる力もまた、神が与えて下さいます。そして、私たちの苦しみを主御自身もまた担って下さるのです。

 そして私たちが苦しみの中にある時、それはまた、私たちが主の十字架の一端を背負わせて頂くことにもなるのです。私たちが「キリストのための苦しみ」を味わうことによって、主の十字架の一端を背負わせて頂く。それによって、私たちのために苦しみたもうたキリストとの交わりの中に深く入れられ、キリストとの結びつきがよりいっそう強くさせられます。

 キリストのための苦しみは、キリスト発見の時であり、十字架のキリストを自ら体験する時となるのです。





2011.6.26


出エジプト記3章



聖書を読み祈る会より


1)「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き……」(7-8節)



 この言葉は、神様がいかに慰めに満ちた方であるかを豊かに語っていると思います。神はこのように、苦しみの中にある人間に積極的に関わられるお方です。今日、医学や科学は非常な進歩を遂げており、すべてのことがそれによって解明されつつあるかのように見えます。でも、現代の最先端の医療をもってしても人の痛み・苦しみをはかることはできません。その人にしか分からないその痛み・苦しみを神様は知ってくださるというのです。

 さらに、痛み・苦しみを知るがゆえに神様は私たちのところにまで降って来てくださった。その救いが目に見える形となったのが、クリスマスの出来事です。神は、「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)とモーセに約束なさったように、すべての人と共に生きてくださるお方すなわち「インマヌエル」(マタイ1・23)なのです。神の愛と恵みは、時を超え、場所を超えて、変わることがありません。

 ここで「苦しみが恵みとして与えられている」ということに注目しなければなりません。苦しみが神から与えられているとすれば、当然ながら神御自身は、私たちがどのように苦しむかということを知っておられ、この苦しみに耐えられる力もまた、神が与えて下さいます。そして、私たちの苦しみを主御自身もまた担って下さるのです。



2)「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)


 この「ある」という言葉は、〈なる〉とか〈いる〉とも訳すことのできる言葉です。つまり“私は、私があろうとする者である”“私は、私がなろうとする者になる”。神様が何であるか、何になるかは、神御自身がお決めになることであり、他の何ものにもとらわれないと、神の完全な自由がここで宣言されています。しかし驚くべきことに、この完全に自由であられる神が、“私はあなたたちの神となろう”と言ってくださり、神の民と永遠の契約を結んで共に生きてくださるのです。主イエスもまた、御自分について「わたしはある」という名を用いておられます(ヨハネ8・24、28、58など)。




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