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2011年7月3日
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2011年7月24日
2011年7月31日


2011.7.3
「真の祈り、真の礼拝」


マルコによる福音書11章12-19節


「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」(17節)


 「強盗の巣」というのは、強盗をした悪人たちが、捕まりそうになるとそこに逃げ込んで隠れる場所です。そこに隠れていれば捕らえられて刑罰を受けることがなく、安全なのです。神殿がそういう〈強盗の隠れ家〉として利用されているというのです。普段は神様から離れ自分の欲望のおもむくままに生きておりながら、“神殿で礼拝をしているのだから、私は大丈夫だ”と考えることの愚かさを、ここで主は指摘されます。また形ばかり数多くの犠牲の動物を献げて、“これで私の罪は赦された”と考えることの愚かさをも、指摘なさいます。私たちのすべての罪をご存じの神様の、その審きから逃げられるはずがないのです。主イエスは、その神様の審きを知らず、神と向き合おうとしない愚かさを明らかにし、私たちに真の悔い改めを迫っておられるのです。神殿、そして教会は、すべてをご存じの神様と真正面から向かい合う所なのです。そこでは、人は自らの罪を告白し、赦しを求めつつ、神の御前にひれ伏す以外にありません。それは、とても恐ろしいことです。

 しかしその時にこそ神様は、私たちを審き、滅ぼしてしまうのではなく、赦しの言葉を語ってくださり、ご自分との交わりを回復してくださるのです。そして主イエスはそのためにこそ、この世に来てくださったのです。それこそが、主の十字架の出来事です。主は、十字架の上に肉を裂き、血を流して、自らが完全な犠牲となってくださったのです。そして十字架による罪の赦しを信じるすべての人を、父なる神様と結び合わせてくださいます。こうして、今や、主イエスが共におられる場所こそが、祈りの場・真の礼拝の場となったのです。すなわち、私たちと共におられる主イエスこそが〈真の神殿〉なのです。




2011.7.10
「実を結ぶ人生」


マルコによる福音書11章20-25節


「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(24節)


 ここで主イエスが言っておられるのは、“人間の救いと、罪の赦しに関して、神様に不可能はない”ということです。

 今日の御言に出て来る「山」というのは、当時の世界で動かない最大のものと捉えられていたようです。それはすなわち、私たち人間の自我、自分中心の罪の姿でもあります。その「山」のように堅固で頑なな私たちの自我を打ち砕き、その罪を代わりに負って死ぬために、主イエスはこれから十字架におかかりになるのです。

 今日のいちじくの木の出来事について、私たちはどうしても、この木が呪われて枯れねばならなかった理由を見出すことはできません。“実がなっていなかったから”ということを一つの理由として挙げましたが、それでも、「いちじくの季節ではなかったからである」(13節)と言われているのですから、理不尽な思いは拭い切れません。

 でも、ここで、よく考えてみていただきたいのです。何も落ち度のなかったこのいちじくの木が呪われ、枯らされねばならなかったこと以上に、何一つ罪を犯されなかった主イエス御自身が十字架にかけられて呪われ、審かれ、殺されねばならなかったその理不尽さは、比べようもないことにここで気づかされるのです。

 これこそ、最大の理不尽です。私たちの理解を超えた、あり得ない恵みを、マルコ福音書はここに示しているのではないでしょうか。「山」のように動かず、頑なな私たちの自我を打ち砕き、その罪を代わりに負って死ぬために、何一つ罪のない神の御子が呪いの木である十字架にかかり、呪われた死を死んでくださいました。そのことによって本来、呪われるべき私たちが赦されました。この大いなる救いから漏れる人は、一人もいないのです。「だから、言っておく」と主イエスは言われます。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。




2011.7.17
「真の権威を持つお方」


マルコによる福音書11章27-33節


「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」(30節)


 主イエスはこの問いを発することで、「祭司長、律法学者、長老たち」に一つの決断を求められたのではないでしょうか。彼らも洗礼者ヨハネが〈神から〉来ていると内心は思っていたでしょう。けれどもそのことを決して表立って認めようとはしません。なぜなら、それは自分の罪を認めることになるからです。洗礼者ヨハネは、人々に己の罪を知って悔い改めるよう迫りました。聖書が語る〈悔い改め〉とは、ただくよくよと自分の過去を後悔し、振り返ることではなくて、自分の生き方を方向転換すること、すなわちそれまで自分中心に、自分を目標に生きてきた人が、神様に向かって生きるようになることです。主イエスは、自分の罪を認めて、神様に立ち帰る決断をするように、彼らに求められたのではないでしょうか。

 私たちは、自分の罪を認めようが、認めまいが、それは自由です。けれども、本当に己の罪を知り、自分が「罪人」であることを認める時にこそ、私たちは、「罪人」を招き(マルコ2・17)、罪を赦される真の権威を持った主イエスに出会います。主イエスの権威、それは私たちを罪と死から解放する権威であり、永遠の命を与える権威です。

 「権威」という言葉を聞く時に、今日の御言に登場する「祭司長、律法学者、長老たち」がそうであったように、私たちは人間が立てたこの世の権威、すなわち上から下への権威、権力や武力などの世の力によって押さえつける権威のことを考えます。しかし主イエスの権威はそのようなものではありません。主イエスの権威は〈神の国〉の権威です。それは愛に基づく権威であり、人を愛によって下から支え、生かす、そのような権威なのです。主はこの真の権威によって、罪の赦しと永遠の命を与えてくださるのです。




2011.7.24
「行って、あなたも同じようにしなさい」


ルカによる福音書10章25-37節



千葉与志長老による説教


「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい』」(36-37節)



 隣人を助けるということは「ともに喜び、ともに泣く」ということですが、そこに主イエスの存在を忘れ、「私が助ける。私だけでどうにか助けられる」と思うとき、自分自身もおぼれてしまうことになりかねません。自分の身を省みずに身を投げ出すことが、はたして私たちにできるのでしょうか。できません。しかし主イエスこそが、その私のために自分を差し出してくれたお方なのです。そのことを知る時に、主に従っていきたいという思いが生まれてくるのです。

 祭司とレビ人がこの気の毒な人を見ても、見て見ぬ振りをして立ち去ったのに対し、このサマリア人はどうしたでしょうか。気の毒に思い、親切にし、金を払って宿屋の主人に頼んで仕事に出かけたと思われます。帰りがけにまた寄ると言い残して、自分の予定に従って行動しています。このサマリア人は、その気の毒な人のために、すべてを投げ出したわけではないのです。しかし確実に助ける手立てを講じ、自分の仕事があったのでしょうから、少し遅れたとしても自分の務めに戻るのです。そのサマリア人には関わりを持つほかの人々との関係があり、約束を守らなければならないこともあるでしょう。私たち自身もそのようなことに縛られて生きていますから、よく理解できる事だと思います。そのような人間関係をいい加減にせず、大切にしなさい、その上で、傷ついた人を介抱し、親切にすることが求められているのです。私たちが出会うさまざまな問題は、そう簡単には解決できないものかもしれません。しかし、主イエスがともに歩んでくださることを信じて生きていきたいのです。





2011.7.31
「神の国の礎」


マルコによる福音書12章1-12節


1)「更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」(5節)


 人間は、神様の権威に従っておらず、また従うつもりもない時、神から送られてきた僕、すなわち神の言葉を拒否するのです。そして、その拒否の仕方も尋常ではありません。捕まえて袋だたきにし、また頭を殴り侮辱する。しまいには殺さなければ気が済まなくなるほど、神の言葉を憎むのです。そして神様の言葉を拒否し続けていくその先で、やがて次のような幻想が生まれてきます。“世界は自分のものだ。この世界の主人は私なのだ”。そうやって、神の御子を殺すのです。


2)「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(10節)


 けれども、驚くべきことが起こりました。人間がこのように、邪魔だといって十字架につけて殺してしまった神様の「愛する息子」主イエスの血によって、神様は私たち人間の救いを成し遂げてくださったのです。“家を造る人が邪魔だと思って捨てた石が、かえって家を支える大切な隅の親石となった”のです。

 そのことを、十字架の出来事が起こる前に、主イエス自らがここで予告しておられます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」(10‾11節)。

 主イエスが十字架におかかりになったとき、主を信じていた人々も“ああ、これで全部おしまいだ”と思ったことでしょう。けれども、主イエスは3日目に復活なさいました。そして、この復活の主イエスを信じる人に、神様は〈神の国〉〈永遠の命〉をお与えになるのです。こうして、主イエスを信じる信仰が今、世界中に行き渡っています。人間が捨てた石で神様は〈教会〉というすばらしい家をお建てになるのです。なんと不思議な、また愛に満ちた神の御業でしょうか!




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