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2011年8月7日
2011年8月14日
2011年8月21日
2011年8月28日


2011.8.7
「神のものは神に返しなさい」


マルコによる福音書12章13-17節


「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(17節)


 この主イエスの言葉は「皇帝のものは皇帝に」だけで終わっているのではありません。「神のものは神に返しなさい」と続いています。では、「神のもの」とはいったい何でしょうか。それは、他ならぬ私たちをも含むすべての人間のことなのです。旧約聖書のいちばん始めの創世記1章には、神様が人間を創造なさった時の出来事が記されています(26‾27節)。人間が神様にかたどり、神に似せて創造されたこと、すなわちすべての人間には神の像・神の姿が刻まれているという驚くべき事実が、そこには記されています。

 「デナリオン銀貨」にローマ皇帝の肖像・姿が刻まれていることによって、税金が皇帝のものであるとするならば、すべての人間には神の像・神の姿が刻まれているのですから、人はまず何よりも神様に、自分の存在のすべてを帰することが求められているのです。時の絶対権力者であったローマ皇帝さえも、この神様の御手の中でしか、存在することも行動することもできないのです。“私たちの存在の根源を知り、すべてのものを御手の内に統べ治めておられる神様の真の権威を知って、神に立ち帰って生きなさい”と主イエスは私たちにお命じになるのです。

 主イエスは「皇帝のものは皇帝に」と言われ、皇帝に税金を納めることを認められました。社会の秩序は私たちが生きる上で欠くことができません。それもまた、神様が与えてくださった恵みの賜物です。だから、この世の支配者が神様の御旨に適った正しいことを行っている限り、税金を払い、法律に従うことは間違いではありません。でも、だからといって、主イエスは“無条件に支配者に従え”と命じておられるのではありません。この世の権威への服従は「神のものは神に」という制限の中に置かれているのです。すべての人間は神様のものであり、神に仕えて生きることこそが人間の本来のあり方なのです。




2011.8.14
「生きている者の神」


マルコによる福音書12章18-27節


「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。……神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(26-27節)


 出エジプト記3章を読んでいきますと、6節に主なる神様が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とモーセに御自分をあらわされた場面が出てきます。同時に神は、少し後の14節で「わたしはある。わたしはあるという者だ」とモーセに自らを示されました。この言葉は難しい表現ですが、神様が何であられるか、何になられるかは神御自身がお決めになることであり、世の何ものにもとらわれないと、神の自由がここに宣言されているということです。

 このように真に自由なるお方、永遠に生きておられるお方、私たち人間を含めあらゆる存在を創造された神様が、その自由の中から、アブラハム、イサク、ヤコブといった族長たちを選んで御自身の許へと招き、共に生きてくださった。彼らはこの世の生涯を閉じ、一度は墓に葬られた者たちですが、今や、死さえも超える神様との永遠の愛の契約・命の交わりの中に生かされているのです。主イエスはこのことを引き合いに出して、神は「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」であると「サドカイ派」の者たちに教えられるのです。“すでにずっと以前に死んだはずの族長たちは、実は今も、神様の御前で、神との交わりの中を生きているのだ”。

 そしてアブラハム、イサク、ヤコブだけでなく、他ならぬこの私たちもまた、罪赦され、この永遠の命の交わりに入れられているのです。復活は私たちの〈〉ということを抜きにして語ることはできません。私たちは、主イエスの十字架によって罪赦され、神様との永遠の命の交わりにすでに入れていただいているのです。そのことを信じる人のうちに、復活の命はもう始まっています。




2011.8.21
「最も重要な掟」


マルコによる福音書12章28-34節


「隣人を自分のように愛しなさい」(31節)


 私たちにとっての「隣人」とはいったい誰のことなのでしょうか。「隣人」とは、そのまま読むと〈隣りの人〉ということです。現代は〈情報化社会〉と言われる時代です。様々なメディアを通じて、世界中の情報が簡単に手に入る時代です。そのような中で、私たちは世界の人々に思いを寄せます。世界の各地の飢えや貧しさに苦しむ人々、内戦やテロによって傷ついている人々……。そういう人々のことを思う時、私たちの心は動かされます。愛の手を差し伸べたくなります。もちろん、そのことは悪いことではないでしょう。

 しかし、主イエスは言われます。“あなたの〈隣にいる人〉を自分のように愛しなさい”。私たちは、自分の身の周りの人々、日々の暮らしの中で出会う人々をどれだけ愛しているでしょうか。また、その人々の中にどれだけ「隣人」を見出しているでしょうか。私たちは、主イエスのこの言葉とはほど遠い現実を、それぞれに抱えています。会社で人間関係に悩んだり、家庭で家族の介護や育児に疲れ果てたりしている。遠く離れた、自分とは何の関係もない人々に思いを寄せることよりも、日常生活の中で、周りの人々の重荷を具体的に背負って共に生きることのほうがどれほど大変なことでしょうか。

 私たちは、「隣人」を愛そうと努力するごとに、自らの愛の乏しさに絶望します。“私の愛はなんとちっぽけなんだろう。私には本当に隣人を愛する力はないのだ”。でも実は、このような愛に破れた惨めな私たちの「隣人」となってくださったお方がおられるのです。それこそが、主イエス・キリストです。“全身全霊をもってあなたの神、主を愛しなさい”、「隣人を自分のように愛しなさい」、二つで一つの、表裏一体の掟を語られた主イエスは、この掟をまさにご自分の体をもって具体的に実行なさいました。神様を愛し、隣人を愛し抜かれた末に主イエスはこの後、十字架におかかりになるのです。それは自分の命を捨てるほどの愛でした。




2011.8.28
「主イエスこそ真のメシア」


マルコによる福音書12章35-37節


「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(37節)


 主イエスは律法学者たちに言われました。“真のメシアは、あなたがたが「ダビデの子」という言葉で表現しているものとは全く違う。あなたがたの言うような意味での「ダビデの子」が、どうして本当のメシアであろうか”。主が示される真のメシアとは、力を振るって敵に打ち勝ち、武力や権力などの力によって民を押さえつけ、支配するようなこの世の王とは全く違います。むしろ、愛によって一人一人を下から支えるような、限りない愛に満ちたお方なのです。そしてそのことをお語りになった主イエス御自身こそが、実は、人々が長い間、待ち続けてきた真のメシアであったのでした。

 主は、今日のこのやりとりのわずか数日後に、御自分のことを理解できなかった人々の手によって十字架につけられ、殺されてしまいます。しかし、十字架の上ですべての人の醜い罪を代わりに負って死なれたその死にこそ、主イエスが真のメシアであるその事実がはっきりと顕れ出ていたのです。

 主イエスは、確かにダビデの子孫としてこの地上にお生まれになりました。けれども、それは律法学者たちが考えるような「ダビデの子」ではなかったのです。律法学者に代表されるユダヤの人々は、自分たちが待ち望んでいる「ダビデの子」がローマの人々の救い主にもなるなどとは、一度も考えたことはなかったでしょう。そのような「ダビデの子」は、彼らの想像だにしないものでした。しかし主イエスは、父なる神様の“すべての人間を、罪と死の滅びから救い出したい”という思いを受け止めて、世界中のすべての人が救われることを望んでおられたのです。真のメシアたる主イエス・キリストの救いは、敵国であるローマの国の人々さえも包み込み、生かすほどの大きな救いだったのです。




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