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2011年9月4日
2011年9月11日
2011年9月18日
2011年9月25日


2011.9.4
「精一杯のささげもの」


マルコによる福音書12章38-44節


「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」(43節)


 「大勢の金持ち」は「有り余る中から」余った一部を献げているに過ぎません。それは彼らにとってそれほど痛みを伴うものではありませんでした。けれども、やもめは「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部」ささげたのです。レプトン2枚は、たとえ他の人にとってはわずかな額であっても、彼女にとっては、その日の「生活費」の「全部」でした。生きていくのに必要なものを〈すべて〉この女性は献げたのです。それは、とても勇気のいることです。貧しければそれだけ、わずかな残りのものにすがりたい気持ちも強くなるのが自然です。でも彼女は、2枚しかないレプトンの内の1枚を残しておくことはしませんでした。少しでも自分の手元に残しておきたい、少しでも自分の手で自分を安心させたいと私たちは考えます。しかし、このやもめは〈すべて〉を献げました。神に心から信頼し、委ね切る思いがそこに表れていたのです。彼女は、“これを献げたら明日からの生活がどうなるか”ということを考えませんでした。神様が必要なものをすべて備えてくださることを心から信じていたのです。だからこそ主イエスはこのやもめの献げ物を「だれよりもたくさん入れた」と言って喜ばれ、彼女の〈信仰〉を讃えられたのでした。

 主イエスは“金持ちの献金には意味がない”などと言っておられるわけではありません。ただ“自分が持っているもの〈すべて〉を献げたこのやもめのことを、神様は決して見過ごされはしないし、むしろ誰の献げ物よりも尊いものとして喜び、受け入れてくださる”とおっしゃいます。私たちが為す神様への献げ物も、たとえどんなに小さなものであっても、神は、金額や量の多い少ないなどで評価はなさいません。その献げ物の中にどれだけの〈感謝〉や〈信頼〉が込められているかを、ちゃんと見てくださるのです。神様は、〈信仰〉から為す私たちの献げ物を、確かに喜んで受け取ってくださるのです。




2011.9.11
「まず福音がすべての人に」


マルコによる福音書13章1-13節


「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(5-6節)


 私たちの社会の中にも救い主・メシアを名乗る者はたくさん存在します。さらにそれは、必ずしも宗教的な装いをもって私たちの前に現れるとは限りません。“これさえあれば、あなたは幸せになれます。あなたの人生は保証されます”。お金や物、学歴や社会的地位……様々な形で私たちの心をかき乱し、惑わすものが現実にあります。私たちを主イエス・キリストから引き離そうとするもの、それらはすべて〈偽メシア〉であり、偶像なのです。

 このような世の力・闇の力がいかに大きいか、またそれに対して、私たち人間がいかに無力であるかを主イエスはよくご存じだったのでしょう。だからこそ主はまず、「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われたのです。人に惑わされず、あるいは様々な偶像に惑わされずに、ただひたすらに主イエスお一人を信じ抜くことがいかに困難であるか、しかしこれこそが何よりも大事なことであるということを教えられます。ただ主イエス・キリストだけを救い主と信じ、主に結ばれて歩んでいくことによってのみ、私たちは「人に惑わされない」生き方をすることができるのです。

 私たちのただ一つの救い主は、このお方、主イエス・キリストです。神の独り子が人となって、私たちのところに来てくださった。そして今もなお、共に生きてくださる。このお方から離れては私たちは何もできません(ヨハネ15・4)。ヨハネの手紙一4章には次のように記されています。「……イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。……」(1-3節)。大事なのは今、イエスを主と信じる信仰に生きているかということです。




2011.9.18
「決して滅びない言葉」


マルコによる福音書13章14-31節


「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(31節)


 たとえどのような試練や困難が私たちを襲おうとも、またこの世界がどれほど移り行こうとも、この主イエス・キリストの御言とそこに顕された父なる神の愛は、決して滅びることがありません。この言葉はイザヤ書40章に出て来る「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8節)という預言者の言葉を想い起こさせる言葉です。これは、かつてバビロン捕囚の時代、異国の地で捕らわれの身となっているイスラエルの民に、神様の救いを告げる言葉でした。人間的には全く希望の見えない時の中で、神が新しい救いの御業を始めようとしていてくださる。その神に、心から信頼していくように。それが預言者イザヤのメッセージでした。これは今日の主イエスの御言とも、ぴったりと重なります。

 この主イエス・キリストの言葉は、自らの言葉の正しさや絶対性を主張する言葉ではありません。弟子たちと教会への温かい配慮の言葉です。主は今、十字架の死を目前に控えておられます。主はこれから十字架につけられ、復活して天に昇られ、やがて再びこの世においでになります。主イエスが心を配っておられるのは、再び世に来られるまでの間の弟子たちのことです。“この弟子たちは、私がいなくなった後、どこに、どのように拠り所を置いて生きていけばよいのだろうか”。主御自身が先立って、そのことに心を配っておられる。今日の御言は、そのような牧会的な配慮から生じている言葉なのです。

 十字架を前にして、主は“私は再びあなたがたの所に戻って来る。必ず来る。それまで、私の言葉に立ち続けるように”という励まし・指示を与えておられます。主イエス・キリストの言葉こそ、天地万物のすべてのものが滅び、過ぎ行く中にあって、決して過ぎ行くことのないただ一つのものなのです。この主の言葉が主の弟子たちを生かし、弟子たちの群れである教会を今も守り、支え続けています。




2011.9.25
「目を覚ましていなさい」


マルコによる福音書13章32-37節


「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(32-33節)


 19世紀のドイツにブルームハルトという牧師(1805‾1880年)がいました。これは広く知られている話ですが、このブルームハルトという人は牧師館の庭に、まだ誰も乗ったことのない馬車をいつも用意していたそうです。“あの馬車は何のためですか”と尋ねられると、彼は“主イエス・キリストが再びこの世においでになる時に、すぐにお迎えするためです”と答えたというのです。

 パウロも、Iコリント1章において次のように語っています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(18節)、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(21節)。

 ブルームハルトが用意した馬車、それは自らの知恵や知識を絶対とする人にとっては、愚かなことでしかないでしょう。でも、その〈愚かさ〉の中には、キリストに生かされている人の幸いと、キリストと共にある真の命があるのです。彼は、〈世の終わり〉という備えようのない出来事に向けて、一台の馬車を用意しました。庭に馬車を置くという行為によって、いわば自らの魂を〈世の終わり〉に向けて置いたのです。そのことによって、いつも目覚めて生きることができた。

 私たちにとっても最も大切な備えは、〈主を待ち望むこと〉です。いつまでもこの世が続くのではなく、必ず終わりの時が来ることを知って、永遠のものに目を注ぐのです。パウロが語っているとおりです。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(IIコリント4・18)。




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