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2011年10月30日


2011.10.2
「愛を注いだ人」


マルコによる福音書14章1-9節


「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(6節)


 “無駄にするな”と言われるまでもなく、この女性にとっても、この香油は決して無駄にできるようなものではありませんでした。それどころか、彼女にとって、これは何物にも代えられないほど大切なものだったに違いありません。

 主を食事に招いたシモンと同じように、彼女もまた主イエスに何らかの助けをいただき、救われ、清められた経験を持っていたのでしょう。どんなに感謝してもし切れないほどのありがたさで心はいっぱいだったのです。“なんとかこの感謝と喜びを主イエスに表したい”と思う内に、彼女は“自分の持ち物の中で最も大事にしている香油を主にお献げしても惜しくない”と思ったのです。ですから、その行為には少しの打算も計算もありませんでした。持てる感謝と愛のすべてを、主に注ぎかけたのです。そしてそれこそが、神様への本当の献げ物なのです。

 愛は、この世の計算を超えています。惜しみ無く、無心で、精一杯注ぎ出す、それが愛の本当の姿です。究極の愛、それが主イエス・キリストの十字架の出来事です。何一つ罪のない神の子が、私たちすべての罪人のために、罪人に代わって肉を裂き、血を流して、その命のすべてを注ぎ出してくださった。いったい、これほどの無駄・浪費があるでしょうか。今日の女性が注いだ「三百デナリオン」の香油を、愛の浪費だとするならば、主イエス・キリストの十字架の死は、神の御子の命は、いったいどれほどの愛の浪費であることでしょうか。

 このキリストの愛に応え、キリストを愛して、私たちも愛の浪費の生活を、惜しみなく愛を注ぐ人生を始めたいのです。主は、この私たちの小さな愛をも豊かに用いてくださるでしょう。




2011.10.9
「神から離れることが罪」


マルコによる福音書14章10-21節


「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)


 マルコ福音書にはユダの裏切りの理由は記されていません。つまりマルコはただ、“この裏切りの出来事もまた、神様の救いの御計画の実現・成就であった”という、このことを告げようとしているのです。でもここで一つはっきりしているのは、“このユダという人は、そのような〈運命〉の星の下に生まれてきた人ではない”ということです。つまり、彼が主イエスを裏切ったことも、その後に後悔の念に駆られて自らの命を絶ってしまったことも(マタ27・3-5)、前から決まっていて変えようのない〈運命〉などではありませんでした。ユダにも、私たちと同じように、どのように生き、どの道を選ぶこともできる自由が与えられていた。

 そして主イエスはそんな彼に対して、悔い改めて御自分の許に立ち帰ってほしいと最後まで待ち続けておられたのです。ゲツセマネの園でついに人々に引き渡されんとする時、主はユダに向かって「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタイ26・50)と、最後まで彼を「友」と呼んでくださいました。けれども、ユダは主イエスに立ち帰って行くこともできるその自由の中で自ら主を棄て、その愛の招きから離れて行ったのです。そして、これこそが人間の罪の姿です。これは決してユダだけの問題なのではありません。すべての人間の内に、このような罪が潜んでいるのです。主は今も、決して変わることのない真実の愛をもって、一人一人を御自分の許へと招いておられます。招きに応えるのも、拒むのも、自由です。しかし、その主イエスの愛、父なる神様の愛から、私たちが離れて行くことが、聖書の告げる罪なのです(ヨハネ3・18-20)。神様の審きとは、私たちのほうが、自分の意志で神の愛と恵みから離れて行くことであり、神の命から離れて真の命を失ってしまうことなのです。




2011.10.16


出エジプト記14章



聖書を読み祈る会から



1、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(13節)


 この「恐れてはならない」という言葉を、主なる神様は族長たちに対してそれぞれ語りかけておられます(アブラハム→創世記15・1、イサク→同26・24、ヤコブ→同46・3)。主がこの言葉をアブラハムに対して語られた時は、彼が試練の中にあった時でした。特にエラムの王ケドルラオメルの連合軍からロトを救い出したことから(創世記14章)、いつこの強大な王の報復を受けるかもしれないという恐怖がアブラハムの心にあったことは、想像に難くありません。同様にイサク、ヤコブに対して語られたのも、それぞれに大きな試練の時であったに違いありません。しかし神は「恐れてはならない」と言われました。なぜなら、彼らは主なる神様の確かな救いの約束の中に生かされているからです。さらに今、預言者であるモーセは、イスラエルの民が直面している最大の危機を前にして「恐れてはならない」と主の言葉を告げます。私たちも、罪と死という最大の敵を前にして、「恐れてはならない」と主から語りかけられています。


2、「主があなたたちのために戦われる」(14節)


 これは、特に申命記において繰り返し語られている言葉です(1・30、3・22、20・4)。ただ、主なる神様が戦ってくださるためには、民の側にも「恐れてはならない」(1・29、3・22、20・3)ということが求められます。彼らが目に見える敵の軍勢を恐れずに、主なる神を畏れ、心から信頼して進んで行く時に、主は彼らのために戦われるのです(サムエル記上17・45-47、歴代誌下20・15)。だから「あなたたちは静かにしていなさい」(14節)。大切なことは、主なる神様に信頼し、主の前に静まって、その救いを待ち望むことです。




2011.10.23
「私の体、私の血」


マルコによる福音書14章22-31節


「取りなさい。これはわたしの体である」(22節)


 他ならぬ主イエス御自身が今、私たち一人一人に「取りなさい」と呼びかけておられます。ともすると取らないことのほうが神や自分に対して誠実であるかのような幻想を抱きやすいものです。“私は神様の前に罪ばかり犯し続けている人間だから、与る資格がない”、こう言って取らないほうが、神様や自分自身に対して誠実であり、真実であるかのように思ってしまうのです。しかしそれは大きな間違いです。

 そもそも、この〈最初の聖餐式〉も、これから自分を裏切ることになる弟子たちのためになされたものでした。御自分を裏切り見捨てるイスカリオテのユダのために、ペトロのために、すべての弟子のために、主はこの食事を用意してくださったのです。そして、パンを裂いて、「取りなさい。これはわたしの体である」とお命じになる。“私を裏切っていく弟子たちよ。あなたがたの罪のために、私は十字架で体を裂くのだ。だから、これを取りなさい”と言われるのです。ここに、主の誠実・主の真実があります。そして、この主の誠実は、私たちの誠実をはるかに超えています。私たちがどんなに神様の御前に誠実であろう、真実であろうとしても、それが何ほどのものでしょうか。

 ペトロや他の弟子たちの覚悟や決心など何ほどのものだったでしょうか。この食事のわずか数時間後には弟子たちは皆、主イエスを見捨てて散り散りに逃げ去ってしまうのです。でも主イエスは、そのような、御自分に従い得ないペトロをはじめとするすべての弟子たちのために、十字架へと向かって行かれるのです。主に従い得ない弟子たちに、また私たちに、主イエスは“私を取って、裂いて食べよ”と命じておられます。聖餐は、それに与るにふさわしくない私たちに主が一方的に恵みとして与えてくださる命の糧なのです。「取りなさい」と言ってくださる主の言葉に感謝して私たちはそれを取って食べ、〈神の国〉〈永遠の命〉へと至る信仰の旅路を歩んでいくのです。




2011.10.30
「あなたは赦されている」


マタイによる福音書18章21-35節



特別伝道礼拝2



「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)


 この家来は「一万タラントン」もの借金の返済を命じられますが、もちろん、とても返すことなどできません。たとえ自分自身や妻子を売ったとしても全く焼け石に水です。もはや絶体絶命です。ところが、驚くべきことが起こります。そのことが27節に出てきます。“こんなに莫大な借金が帳消しにされることなどありっこない”、私たちはそう考えます。けれども、このような〈赦し〉の奇跡が実は一人一人の人生において現実に起こっているのだ、と主は言われるのです。

 この譬え話は、驚くほどの主君の〈赦し〉を通して、私たちの想像をはるかに超える神様の〈赦し〉について語っているのです。私たちが犯してきた〈〉、今なお犯し続けている〈〉の価はどれほどのものなのでしょうか。それは「一万タラントン」もの大きさを持っており、私たちの持っているものすべてをもってしても到底償うことのできないものであることを、主イエスはこの〈譬え〉を通して教えられます。しかし、このような、どうすることもできない罪を抱えた私たちを、神様がいかに憐れんでいてくださることか。

 27節の「主君は憐れに思って」と言われるその〈憐れみ〉という言葉は元々、〈内臓〉を指す言葉、つまり〈〉とか〈心臓〉などを指す言葉から来ています。当時は〈内臓〉が人間の感情の宿る場所だと考えられていたからです。それゆえ、この「主君は憐れに思って」というところを、「主人は、腸(はらわた)がちぎれる想いがし」と訳している聖書(岩波訳)もあります。神様は、自らの罪の大きさにどうすることもできない人間の苦しみを見て、審き、滅ぼしてしまうのではなくて、むしろその人に対して腸がちぎれるほどの〈憐れみ〉に駆られ、そのすべての〈〉を赦して帳消しにしてくださるというのです。神様の〈憐れみ〉〈赦し〉は、いかに大きなことでしょうか!




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