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2011年11月6日
2011年11月13日
2011年11月20日
2011年11月27日


2011.11.6
「神の教会」


コリントの信徒への手紙一 1章1-3節


「コリントにある神の教会へ……」(2節)


 この2節は手紙の受取人について記されているところですが、まずパウロは「コリントにある神の教会へ」という驚くべき言葉をもって語り始めています。コリントの教会は当時、様々な問題を抱えていた教会でした。今日の箇所のすぐ後の10節以下を読むと、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」……といって分派争いが起こっていた様子が窺われますし、他にも性的な乱れがあったことなどが、この手紙を読み進んで行くと分かります。

 けれども、このような現実の只中にあるコリント教会を、パウロは「神の教会」と呼ぶのです。ここに、〈教会〉というものの本質が示されています。コリント教会が始まったのも、現在あるのも、すべて神様の御手に拠るのです。パウロは、コリント教会のあらゆる現状にもかかわらず、いやそうした現状であるからなおのこと、〈教会〉を〈教会〉としてくださる神の恵みの事実を、まず第一に取り上げるのです。

 そして私たちのこの仙台黒松教会もまた、「神の教会」なのです。私たちの教会もまた、コリント教会と同じように弱さや欠けを持った一人一人の集まりです。けれども、たとえどんなに多くの問題があるとしても、神御自身が私たちのこの教会を建て、「神の教会」としてくださり、祝福してくださっている。これは、なんという恵みでしょうか。コリント教会においては、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」……と、まるで〈教会〉が誰かのものであるかのように争われていましたが、〈教会〉は牧師や信徒のものではなく、ただ神様のものであり、だからこそ「神の教会」なのです。神御自身がこれを建ててくださり、これを治めておられる。それが、人間の作るあらゆる団体や集会と「神の教会」の違いです。




2011.11.13
「主イエス・キリストとの交わり」


コリントの信徒への手紙一 1章4-9節


「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは……主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(9節)


 〈キリストとの交わり〉には〈使徒信条〉の「わたしは……聖徒の交わり……を信じます」という告白が深く関わっています。このことはしばしば誤解されがちです。〈聖徒の交わり〉だから、信者が集まれば教会になると思ってしまうのです。逆に言えば、集まらなければ教会にならないし、集まりたくなければ教会は必要でないと考えてしまう。また交わりということも、お互いの交わりのことばかり考えて、自分たちの気に入る相手と好きな仕方で交わればそれで教会になると考えて、ただ人間的な意味で親しくなることばかりに努めてしまう。

 けれども、そもそも私たちが〈聖徒〉とされているということ自体が神様によって救われて神のものとされたということで、このことがすでに信仰をもってしか考えることのできない事柄なのです。ですから、教会が〈聖徒の交わり〉であるということも、私たちが信ずべき事柄なのであって、うまく交わりができたとかできないというようなものではありません。〈聖徒の交わり〉とは、詰まるところ〈キリストとの交わり〉のことなのです。

 では、私たちはどうやってその〈キリストとの交わり〉にあずかるのか。御言の説教と、聖礼典――洗礼と聖餐――を通してです。こう申しますと、説教と聖礼典を正しく行えば、あとは信者の交わりは、愛の交わりとしてお互いに親しくすればいい、と思われるかもしれません。しかしそうではなくて、御言の説教が正しく語られ、聖礼典も正しく行われることによって、私たちはそこにおいて〈キリストとの交わり〉にあずかるのです。そして、そのことこそがキリストの体とされること、すなわち〈聖徒の交わり〉そのものなのです。ですから、説教と聖礼典にあずかるこの礼拝に集われた方すべてが、もうすでに〈聖徒の交わり〉をしているのです。




2011.11.20
「一つに結び合わされる」


コリントの信徒への手紙一 1章10-17節


「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」(13節)


 最大限の力を込めて、パウロはキリストについて3つの点から説き明かします。第1に、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」と問いかけます。これは、〈教会はキリストの体〉という前提に立つ問いです。この手紙の12章で、パウロは次のように語っています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」(12節)。つまり“キリストの体は一つであり、教会も一つである。そのことを本当にわきまえよ。あなたがたがいくつもの派閥・分派を作って教会の中で相争っているのは、ただ一つなるキリストの体をバラバラに引き裂くという愚かで罪深い行為なのだ”。このようにしてパウロは、一致を勧告します。

 続いて第2に、「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」と問いかけます。“あなたのために死んでくださったのは主イエス・キリストただお一人だ。このパウロではないし、アポロでもケファでもない。そのことを忘れたのか”と、これまた厳しい言葉で正します。コリント教会の信徒たちが、自分たちの心酔する指導者を祭り上げるのは、キリストの十字架の贖いを無力にすることで、本当の信仰とは逆行するものであるとパウロは告げるのです。

 そして第3に、「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」と問いかけます。この「パウロの名によって」という言葉は、直訳すると“パウロの名の中へ”という言葉で、つまり“洗礼を受けた結果、パウロのものになったのか”ということです。“あなたがたは、洗礼を受けてパウロの権威に服する者になったのか。そうではないはずだ。キリストの権威の下に生きなさい”。




2011.11.27
「神の弱さは人よりも強い」


コリントの信徒への手紙一 1章18-25節


「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(18節)


 申命記21章に「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(23節)という言葉があるように、ユダヤ人にとって木にかけられる十字架の刑は、最も神から呪われた最悪の死に方でした。しかし、主イエスは私たちに代わって、その〈呪い〉をも引き受けてくださったのです。ガラテヤ3章に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(13節)と記されているとおりです。今や私たちを呪うものは何一つありません。この春の大震災について、“これは神の審きだ。呪いだ”あるいは“神などいないことがこれではっきりした”などと様々なことを言う人がいますが、私はどれも誤りであると思います。なぜなら、この「十字架の言葉」がはっきりとそれらに対して“いや、それは違う!”と語っているからです。

 神様が、御自分の御子を私たちのために世に送ってくださり、その御子の十字架の死によって私たちの罪はもう全部赦されているのに、罪の審きが下されるはずがありません。御子が呪いをすべて代わりに引き受けてくださったのに、呪われるはずがありません。十字架は、神の子が私たちの呪いを一身に引き受けられた、その場所です。そして、そこを救いの場所に変えてくださったのです。神の御子は、遠くから私たちをただ眺めているのではなく、この呪いを引き受けるために、自分のすべてを差し出して、血を流して死んでくださいました。これこそが十字架の出来事です。十字架の出来事=「十字架の言葉」は、“これ以上ないと思えるほど最悪の場所・暗い場所であっても、神様の愛が届かないほど暗い場所は、もはやこの世にはない”ことを示しています。こんなにも神様は私たちに近くおられ、こんなにも一人一人を愛しておられるのです。




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