- INDEX -
2011年12月4日
2011年12月11日
2011年12月18日
2011年12月25日


2011.12.4
「私たちと等しくなられた主」



ヘブライ人への手紙2章5-18節


     

「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(17節)


 主イエスは、1)人間に対しては、まことに「憐れみ深い」〈大祭司〉となり、「すべての点で」私たちと「同じように」なって、私たちの悩みや苦しみに一つ一つ“うん、うん”と言って耳を傾けてくださり、同時に2)父なる神様に対しては、神の御意志にどこまでも従順に従う「忠実な」〈大祭司〉となり、人間を代表して神様の前に立ち、“この愚かな者たちの罪を赦してください。彼らは自分でも何をしているかわからないでいるからです”と言って執り成してくださるお方です。

 このようにして、主イエスは「民の罪を償うために」、神様と人間との交わりを回復するために、「すべての点で」人間と「同じようにならねばならなかった」のでした。最後の18節は、実に慰めに満ちた言葉です。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。なぜ、主イエスが苦しみの中にある人を助けることができるのか。それは、他ならぬ主御自身が「試練を受けて苦しまれたから」です。私たちは皆、この世において様々な試練を受け、苦しんでいます。主イエスもまた私たちと同じ苦しみを共に苦しんでくださるがゆえに、一人一人のことを誰よりも深く知り、憐れんでくださるのです。

 たとえ私たちのこの世での苦しみがどれほど大きいとしても、主イエスが経験なさった数々の厳しい試練、特にゴルゴタの丘での十字架の苦しみに比べるならば、全く取るに足りないものと言うことができます。主イエスは完全な仕方で、人間であるがゆえの苦しみを味わい尽くされたのです。だからこそ主は、私たちのあらゆる悲しみや苦しみの中に入ってこられ、私たちの重荷を共に負ってくださることが、おできになるのです。



2011.12.11
「祝福の約束」



マタイによる福音書1章1-17節


     

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(17節)


 最初の1節は短い言葉ですが、ここにはとても深い内容が込められています。それは、“神様がアブラハムにお与えになった祝福の約束は、主イエスにおいてついに実現した”ということです。

 この「系図」では、主イエス・キリストのことを、まず「アブラハムの子」と呼んでいます。旧約聖書の創世記12・2には、神様がアブラハムを祝福し、彼を「大いなる国民」とするという約束を授けたことが出てきます。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」。アブラハムはイスラエルの先祖です。神様のアブラハムに対する祝福の約束は、まずイスラエルの民において実現します。アブラハムは「祝福の源」となりました。

 でも、その祝福と救いの約束は、単にイスラエルに留まるものではありませんでした。先ほどの創世記12・2に続く12・3には「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と記されています。神様のアブラハムに対する祝福の約束は、イスラエルという狭い枠を超えて、全人類へと広がっていくものだったのです。その神様の祝福の大きさ・広さ・深さが、福音書全体を読む時に分かってきます。

 このマタイ福音書の最後の28・19-20には、復活なさった主イエスの言葉が記されています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。……」。“もはやイスラエルという狭い枠を超えて、あなたがたは、主なる神様と共に生きるという真の命・〈永遠の命〉へと、世界中のすべての人を招きなさい。この真の命を宣べ伝えなさい”。こうして、アブラハムに対する祝福の約束は、主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、本当に実現したのです。神様は、御自分のなさった約束に対して、いかに誠実で真実なお方であることでしょうか。



2011.12.18
「神は私たちと共に」



マタイによる福音書1章18-25節


     

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)


 この御言を出エジプト記3章7-8節の御言と併せて読む時に、“インマヌエル=神は我々と共におられる”ということの意味が、深く心に沁みてきます。イスラエルの人々がエジプトの奴隷の境遇から救い出されたのは、後の時代にすべての人がさらに大きな救いを経験する、そのことの〈しるし〉であり〈前触れ〉であったのです。イスラエルの民は、エジプトの奴隷にされていました。では、さらに大きな救いとは何でしょうか。それは、すべての人が罪と死の奴隷にされているという現実であり、そこからの解放です。

 罪と死の奴隷にされている私たちの「苦しみをつぶさに見」「叫び声を聞き」そして「痛みを知っ」てくださった神様は、自らこの世に降って来られました。それこそが主イエス・キリストというお方です。それがクリスマスの出来事です。全く自由であられた神御自身が、人間となることによって私たちと同じ肉体を持ち、私たちと同じ弱さや、貧しさや、限界という束縛の中へと降って来てくださった。そして、私たちの罪と死がもたらす痛み・苦しみをどこまでも深く「知っ」てくださり、罪と死によって奴隷にされている私たちを「救い出し」て、「広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地」すなわち〈神の国〉へと導き上ってくださるのです。

 主イエスはやがてマリアから産まれ、病気の人、貧しい人、罪人とされていた人など、あらゆる人の友となって共に生きてくださいました。そして生涯の最後には、すべての人間の罪を代わりに背負って十字架にかかって死に、復活なさったのです。このマタイ福音書のいちばん最後は、その復活の主イエスの約束の言葉で終わっています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)。



2011.12.25
「救いの星に導かれて」



マタイによる福音書2章1-12節


     

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(11節)


 ここには大いなる逆転が起こっています。ヘロデ王も、祭司長たちや律法学者たちも、救い主がどこに生まれるかを知らされていながら、そこへ行こうとはしません。でもこの真の救い主は、私たちに立ち上がってその方のもとへ出かけて行き、ひれ伏すことを求める、そのようなお方なのです。私たちがこれまでの自己中心的な生き方を捨てて神様の前にひれ伏すのでなければ、礼拝するのでなければ、主イエス・キリストの与えてくださる恵みに与ることはできないのです。

 ルカ福音書1章に出て来る〈マリアの讃歌〉の言葉が想い起こされます(51‾53節)。この世のもので満ち足りるのでなく、自らの魂の飢え渇きを知って、心から神を求める人をこそ神様は満たされるのです。普段からユダヤと直接接していたわけでもない東の国の学者たちが、星を見つけたからといってはるか彼方からやって来たことの中には、この日生まれた救い主をこの世がどれほど必要としているかが表れています。このお方によってでなければ満たされない飢え渇きが、この方によってでなければ癒されない痛みが、私たちにはあるのです。主イエス御自身もマタイ福音書の〈山上の説教〉の中で言っておられます。(7・7、5・3)。

 今日の御言において、占星術の学者たちは、不思議な星に導かれて主イエスを見出すことができました。今もなお、神様は、主イエス・キリストを心から求める一人一人に、その人の思いに先立って、様々な仕方で――私たちの周りの人を通し、また人生に起こる出来事を通して――この真の救い主の許へと導いてくださるのです。私たちも今、不思議な星に導かれています。



前の月へ

次の月へ

トップページへ