2019.7.7
「行いのない信仰は死んだもの」



ヤコブの手紙2章14~26節


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「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか」(21節)


 息子イサクが生まれた時、実にアブラハムは100歳、サラは90歳になっていました。そして、最後にして最大の試練がアブラハムの身に降りかかったのです。創世記22章に記されていますので、ぜひ読んでみていただきたいのですが、神様はアブラハムに驚くべきことをお命じになったのでした(22・2)。普通は、羊や牛といった家畜を人間の代わりに殺して、その血を祭壇の回りに注ぎかけ、頭と脂肪を祭壇の上で焼き尽くして、その香ばしい煙を主にささげるのですが、アブラハムは、やっと与えられた独り子イサクを自分の手で殺し、焼き尽くす献げ物として献げるよう命じられたのです。

 もちろん、これはアブラハムにとって決して楽なことではありませんでした。むしろ彼が受けてきた試練の中で最大のものでした。けれども彼は、イサクを献げるのです。正確には彼が刃物を取って息子を殺そうとした刹那、主の御使いが「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(22・12)と言って止めたのですが、彼が心からイサクを献げたという事実には変わりがありません。彼のこの心からの「行い」は、信仰なしには不可能でした。「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう」。私たちは、彼を通して、まさに信仰と行いが一体となっている姿を見出すのです。アブラハムの行いは決して信仰と対立するものではありません。まさに「信仰が行いによって完成」する、つまり信仰と行いというこの二つは、二つで一つの業なのです。①神様を心から愛する〈真の信仰〉を私たちが持つならば、そこから、②他者を愛する〈愛の行い〉も生まれてくるのです。







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